とことんお国自慢
伊賀は「秘蔵の国」
「とことん」と言っても、自ら限界があろうと思う。仮に恥も外聞もかなぐり捨てて・・・・・・と言われても、それとて、私のようなどちらかと言えば、口数少なく絶えず遠慮気味に生きてきた者にとっては、これまた極めてつらい注文。ましてや、「自慢」ということになると、私の性格にはとても合いかねる話である。したがって、ありのままの「伊賀上野」を皆さんにご紹介することで、私の役目を果してみたいと思う。
「伊賀上野」は、時として間違って「伊賀上野市」と書かれることもあるが、今もって正式には「上野市」である。
上野市は三重県の西北の隅っこにあって、人口は僅か六万一千人。かつて徳川家康の命を受けてこの地に移封された藤堂高虎が「伊賀は秘蔵の国なり」と言ったが、まさにその秘蔵の国・伊賀の中心都市である。
この町を全国的に紹介するには、「松尾芭蕉」と「伊賀流忍術」と「伊賀越仇討」が手っ取り早いと思うのだが、私の町に駐在している北海道生まれの中央紙の記者は、「伊賀上野は宝物がいっぱい転がっているのに、ホコリでその輝きを隠してしまっている街」との印象を述べている。
もともと市としては、「文化香る歴史の町」をキャッチフレーズとしているが、へそ曲がりの私は、極めて乏しい文化行政に抵抗し、自嘲的に「文化黴る溺死の町」というコピーをつくって、自らの発奮剤に使っている。
文化財の宝庫
上野市には、現在国指定二六件、県指定三六件、市指定七二件、旧重要美術品九件の計一四件の指定文化財がある。これは県下一の文化財の宝庫だ。また指定外でも、葺石および円筒埴輪をめぐらし、形象埴輪も豊富に出土した石山古墳や、全国で八例目、東海北陸地方で初の発見となった伊賀国庁跡などがあって、少々の発見では驚かない土地柄。ところがこのほど国の「名勝及び史跡」に指定されることになった「城之越遺跡」の発見にはいささかびっくりさせられた。
この遺跡は四世紀後半のものだが、遺跡の中心となる大溝は、石を張り付けた護岸や、合流部分に大きめの石が立てられているのが特徴。六世紀後半から始まるとされるわが国の庭園のルーツではないか、と思われたからだ。一昨年八月の現地説明会では、全国から約三千人の考古学ファンが訪れ、大騒ぎとなった。とにかく上野市は、五〇〇万年前は今の琵琶湖のルーツだったと言われるほどの歴史をもつ土地。何が発見されるかわからない秘蔵の地である。
この地に碁盤目状の本格的な町づくりを行なったのは、慶長十三(一六〇八)年に、伊予今冶からやって来た藤堂高虎である。
戦国武将の中でも、特に“築城の巧者”と言われただけあって、さきの領主・筒井定次の故城を拡大して、城普請にとりかかった。五層の大天守を築く計画であったが、完成の直前に暴風雨によって倒壊。結局天守閣は無いままで明治を迎えたが高さ日本一の石垣が残った。これを利用して、木造では最後の建築となった昭和の天守閣を建てたのは、地元の代議士・川崎克氏である。「攻防作戦の城は滅ぶ時があっても、産業の城は人類生活のある限り不滅である」との復興者の理想のもとに“伊賀文化産業城”と名づけられた。
中秋の名月を賞でながら、薪能が毎年このお城をバックに演じられ、幽玄の世界に誘ってくれる。
高虎は築城の夢は果せなかったものの、城下の整備には心血を注いだ。まず丸之内の外に、東西にわたって本町筋、二之町筋、三之町筋の三筋町を並べ、特権商人の保護を図った。さらにその外に伊賀者組屋敷、郷鉄砲組屋敷などがあって、これらが忍町、鉄砲町と呼ばれるようになった。また南北には東の立町筋、中の立町筋、西の立町筋があって、これらが東西の通りと交わって碁盤目状の町割ができている。
こうして特権を与えられた三筋町の商人らが、町衆の心意気とばかりに十月の上野天神祭で、御神輿の巡幸に供奉して、絢爛豪華なだんじりや鬼行列を行っているのである。本町筋と二之町筋の九町が、それぞれ一基のだんじりを曳き、三之町筋の四町が鬼行列を担当。軒の低い町並みをゆっくりと進むさまは、まさに時代絵巻そのものである。
「だんじり会館」では、三基のだんじりと鬼行列の一部を再現展示。三〇〇インチ三面のマルチスクリーンで、城下町上野の自然と風土を、四季を通して紹介している。
芭蕉翁と世阿弥
俳聖・松尾芭蕉は、一六四四年に現在の上野市赤坂町で、松尾與左衛門の二男として生まれた。したがって来年は生誕三五〇年の節目の年を迎えることになる。「芭蕉翁生家」は市の史跡に指定されているが、野ざらし紀行の途次、母の遺髪を拝んだのも、また、笈の小文の旅の途中、臍の緒に泣いたのも、この家である。その裏庭には、処女撰集の「貝おほひ」を編んだ釣月軒が、当時の面影をしのばせている。果してここで幾たび草鞋を脱いで旅の疲れを癒したことか。
この町で芭蕉ゆかりの遺跡を訪ねるには事欠かない。遺髪を収めた故郷塚をはじめ、高弟・土芳の草庵「蓑虫庵」、旧主君の遺児の別邸であるさまざま園のほか、上野公園内には翁の旅姿を模して作られた俳聖殿や俳諧資料などを展示する芭蕉翁記念館が建てられている。また、近鉄上野市駅前には銅像が立っているし、目抜き通りの街路灯の支柱やJR伊賀上野駅のホームには、芭蕉の俳句が掲出されているが、何よりも土地の人が、芭蕉を敬慕の念から「芭蕉さん」とさんづけの呼び方で慣れ親しんでいる町である。
俳聖・芭蕉の生誕地が伊賀上野なら能を大成した世阿弥もまた伊賀上野で生まれている。この地の上島文書の伝えるところでは、楠木正成の妹が伊賀において観世元成の三男と結婚して観世清次(観阿弥)を生み、この清次が伊賀小波田の竹原屋敷に預けられた播磨国揖保庄の永富左衛門六郎の女と結婚、その間に生まれたのが世阿弥元清だという。上野市守田町に世阿弥公園があって、園内には永富家によって世阿弥の母の銅像が建てられている。吉川英治の『私本太平記』も、杉本苑子の『華の碑文』も、この上島文書に基づいて書かれている。
野口雨情、中山晋平の名コンビで作られた『伊賀上野小唄』は、
伊賀の水月 鍵屋の辻はョ
義理のしがらみ 乗りかけお馬
荒木武男で名がひびく・・・・・・ではじまる。
これは鍵屋の辻で、渡辺数馬が義兄である荒木又右衛門の助けを得て、弟源太夫を殺した河合又五郎を討ちとった“伊賀越仇討”を歌ったもので、講談や芝居では「荒木の三十六人斬り」などと喧伝されて、有名である。
もっとも、この仇討が民衆にもてはやされた背景には、大名と旗本との軋轢という社会事情に加えて、天下の剣豪・又右衛門の助太刀によって、みごと大願を成就したという人情話によるものだろう。
今も鍵屋の辻公園には、伊賀越資料館と復原された数馬茶屋があるが、茶屋の女主人のもてなしは評判が高く、「傍で仇をゆわす」にちなんだ、力餅の入ったおそばに、焼いたいわしを添えた定食が名物となっている。
戦国時代の伊賀の土豪たちが、自己防衛の戦術として創出したのが、「伊賀流忍術」。決して猿飛佐助のように煙でパッと消える訳ではないが、天正十年六月、本能寺の変を泉州堺で知った徳川家康が、急遽三河への道を急いだ時、御斎峠越えの護衛をしたのが、服部半蔵ら伊賀者、甲賀者の三百人であった。この時の恩義で、のちに江戸詰めの任務を命じられ、今も半蔵門の名をとどめている。
上野市には、おそらく全国で唯一であろう「忍町」という名の町がある。また上野公園内には、忍者屋敷と忍術科学館があって、観光の目玉となっている。忍者屋敷は郊外から移築したものだが、「くノ一」と呼ばれる女忍者が、いろんなカラクリを使って実演をして、観光客を喜ばせている。
なお、四月の第一日曜日に繰り広げられる忍者まつりは、仮装した忍者らが目抜き通りを練るなどして、多くの人手で賑わう。
文教施設も指定文化財
上野公園の前は、中学校、高校、小学校が整然と並んだ文教地域だが、その中学と高校にはさまれた位置に、国の史跡に指定されている旧崇廣堂がある。白い土塀に囲まれた一角で、藤堂藩の藩校の跡。岡山の閑谷学校とともに、その遺構が見られる全国的にも珍しい例である。もともと藩校は、一藩に一校しか認められなかったので、津の有造館の支校として、一八二一年に創立されたもの。伊賀と大和、山城の領地に住む藩士の子弟を教育するためのもので、創建当時は敷地約二六〇〇坪、建坪七七〇坪の規模。そこに講堂をはじめとした分教場と、各流儀を指南した武道場とがあって、土塀で仕切られていたが、武道場部分が中学校敷地となり、分教場部分のみが残っているという寸法。老朽化が激しくなって、一九九〇年建築の玄関などの校舎が今も使われていて、三重県指定の文化財。ここから“文学の神様”と言われた横光利一が出る。横光は卒業までの五年間、上野の街で下宿したが、この中学時代をモチーフにした作品が、『雪解』。少年の淡い恋と別れを描いており、作中の街の情景や城跡での雪合戦などは、彼の実体験に基づいている。
少し離れて、同じく三重県指定文化財の元小田小学校本館がある。一八八一年の建物で、三重県に現存する明治初期の洋風学校建築として最古のもの。松本市の開智学校のような塔屋を復原する工事が進行中である。
川端が絶賛した伊賀焼
産業面で誇れるものと言えば、やはり古い土地柄だけに、伝統工芸品にいいものがある。
鎌倉時代の始めから焼かれている伊賀焼は、特に室町時代の後期ごろから始められた侘び茶によって、水指や生け花がもてはやされ、茶陶の王座を占めるに至った。現在も谷本光生さんや坂本瀧山さんらが活躍している。
川端康成がノーベル賞受賞の記念講演「美しい日本の私」で、伊賀焼について述べているので、少し長いが引用してみよう。
「日本の焼きものの花生けのなかで、最も位が高いとし、また価ひも高い、古伊賀は水に濡らして、はじめて目ざめるやうな、美しい生色を放ちます。伊賀は強い火度で焼きますが、その焚きもの(燃料)の藁灰や煙が降りかかって花瓶の体に着いたり流れたりで、火度がさがるにしたがって、それが釉薬のやうになるのです。陶工による人工ではなく、窯のなかの自然のわざですから、窯変と言ってもいいやうな、さまざまな色模様が生れます。その伊賀焼きの渋くて、粗くて強い肌が、水気を含むと、艶な照りを見せます。・・・・・・」
同じく国の伝統工芸品に指定されている伊賀組紐は、和装離れから伸び悩んでいるものの、全国生産の約八〇パーセント、特に手組み生産では、全国の約九〇パーセントを占める日本一の産地である。
名物に旨いものあり肉に酒
食べものでは、何と言っても伊賀牛。牛と言えば松阪牛があまりにも有名だが、その松阪へ伊賀牛が出荷され、松阪で口にする牛肉の何パーセントかが伊賀牛の肉であることを知る人は案外少ない。池波正太郎が『食卓の情景』で「松阪の牛肉が丹精をこめて飼育された処女なら、こちらの伊賀牛はこってりとあぶらが乗った年増女である。と書いたら、丸谷才一がとんできて、『食通知ったかぶり』で、その旨さを証明したのは、有名な話。
また伊賀は酒どころ。酒造りに欠かせない良質の酒米と美しい水に恵まれ、現在十八の酒造場がある。そのうち上野市内には十の酒造場があるが夏は暑く、冬は寒いという典型的な内陸型気候で、酒造りには最適の環境にある。辛党の人には、ぜひ伊賀の地酒で伊賀肉を食べる贅沢をお勧めしたい。
つぎに、豆腐でんがくもお勧めしよう。丸谷才一が「柚子味噌とほのかな山椒の香りと、それから炭火とが豆腐に対して与へる効果は驚嘆すべきものがある。」と書いているから、その味の良さ、たかが豆腐、されど豆腐というわけである。
ことのついでに漬物も紹介しよう。
しその葉や実、しょうが、大根、きゅうりなどを刻んで、白瓜の中に詰め、たまり醤油や玉味噌に漬け込んだ漬物が有名。保存がきいて、夏も冬も味が変わらないのが特徴。
このほか、忍者の携帯食と言われる「かたやき」や、長崎でオランダ人から習って作ったという「ながさき」、京都の和菓子なども伊賀が生んだ名菓で、伊賀に限っては、「名物に旨いもの有り」と太鼓判を押しても、お叱りは受けまい。
人材もまた宝物
人材もまた、この町の大きな宝物の一つである。
この町が輩出した文化人は実に多土済々だが、現在活躍中の人を順不同で少し紹介してみよう。
前衛派では初の紫綬褒章を受けた画家の元永定正さんは、一九二二年の生まれ。このところ、国際画壇のトップランナーとして走り続けているが、これまでに日本芸術大賞、芸術文化振興協会賞、兵庫県文化賞、大阪芸術賞のほか、フランス政府から芸術文芸シュバリエ賞などを受けている。
もともと市の公民館の嘱託員として、広報紙にマンガなどを描いていたが、地元の画家・濱邊萬吉氏に師事。その後、神戸へ出たが“本命”の画家になるまで、国鉄、郵便局、ダンス教師など二十数回職を変えたという。現在は宝塚市に住んでいるが、上野にアトリエをもっていて、制作活動は専らこのアトリエで行っている。仕事に疲れると、街へ出て伊賀の地酒を飲みながら、カラオケのマイクを握っていることが多い。
元永さんに初めて絵を教えた濱邊萬吉さんは、既に九十歳を超えていて、まさに大御所的な存在。一九二八年に帝展に初入選以来、文展、日展を通じて八回の入選歴をもっているが、この人が上野市の文化・観光行政を支えた功績は、筆舌に尽しがたいものがある。街の入口にある歓迎アーチをはじめ、市民病院ロビーの壁画、芭蕉翁の句碑・文学碑の類、各種出版物の意匠や装丁に至るまで、市内のあちこちで氏のデザインに接することができる。
濱邊さんの師匠格である故奥瀬英三画伯の甥に、忍術研究家で有名な元上野市長・奥瀬平七郎さんがいる。奥瀬さんは、上野の忍術観光の生みの親であるが、早稲田大学在学中に井伏鱒二氏に師事した文学者でもある。市役所に勤めながら同人誌に小説を発表、中村光夫氏の推薦を得て芥川賞候補にもなった人で、純文学のほか、忍術関係の著書が多い。
NHKテレビの『書道に親しむ』などで有名な書家・榊莫山さんは一九二六年生まれ。辻本史邑氏に師事し、五一年から大阪に出て都会暮しをしていたが、八一年秋に両親が亡くなったのを機に帰郷し、今は「草庵」と名づけた閑静な住まいで制作活動を続けている。早い時期に日本書芸院展、関西総合美術展などで最高賞を受賞したが、五八年に各展の審査員を全て返上して野に下った。最近では詩・書・画一体の世界を東洋的なムードで表現し、独特の飄々とした風貌とともに多くのファンを魅了している。作家の瀬戸内寂聴さんは、「莫山さんの字も絵も天衣無縫、空中を飛んでいる仙人飛翔を見るよう」と評しているが、まさに莫山さんは「今様仙人」そのものである。
放送作家の岸宏子さんは画家の元永さんと同じ一九二二年の生れで、二人は幼馴染み。横光利一のいとこの子という血筋を引いてか、物心がついた頃から「物書き」に憧れていたとのこと。四二年に厚生省が公募したコンクールで、短編小説『醜女』が勤労文化賞を受賞したのが作家活動のスタートで、物書きになって半世紀を超えた実力派。一貫して生まれ故郷に腰を据えて、中部地方を舞台に中年女性の哀歓などをユーモラスに描いていて、ラジオ、テレビの脚本が約三千本に達している。一昨年のNHKドラマ『不熟につき』では、芸術大賞、ギャラクシー選奨、放送文化基金章を受け、地方在住作家で紫綬褒章を受けているのは稀有な存在である。
岸さんに続こうというのが、放送作家の北泉優子さん。NHKに入局して編成部、テレビ文芸部に勤めたのち、脚本家を経て作家活動に入った。脚本に木曜ゴールデンドラマ、水曜ドラマスペシャルなど二時間ドラマが多数。著書では『忍ぶ糸』をはじめ、『忍ぶ橋』『絣の花』『魔の刻』などがあり、初期の作品は、伊賀の組紐、吉野の紙漉き、弓ヶ浜の絣など、土地の伝統的な手仕事を支える女性を描いたものが多い。
児童文学では、『ヘルンとセツの玉手箱』を書いた藤森きぬえさん(神戸市在住)がいる。
歌人では、在日韓国人二世としての心境を歌っている李正子(イ・チョンジャ)さんと、一九八九年角川短歌賞を受けた高橋則子さんがいる。李さんは戦後歌壇の旗手といわれる近藤芳美氏に師事。歌集に『鳳仙花(ポンソナ)のうた』『ナグネタリヨン(永遠の旅人)』があり、特に来年度から使われる高校一年用教科書に三首が採用されることになった話題の人。高橋さんは結婚して西宮市に住んでいるが、歌集に『水の上まで』がある。
少し変わったところでは、イラストレーターの古川タクさんがいる。彼は大阪外語大を卒業後、久里実験漫画工房に入社。その後フリーとなり、一九七五年『驚き盤』でア
ヌシー国際アニメーション映画祭審査員特別賞、七九年文春漫画賞、八一年には『スピード』で毎日映画コンクール大藤賞を受賞。アニメ、イラスト、漫画のほかに、オブジェやペインティングにも力を入れている。
NHKドラマ部でチーフディレクターをしている吉村芳之さんも上野出身。大河ドラマの『伊達正宗』や、現在放送中の『琉球の風』の演出家として活躍中。同じNHKで『クイズ百点満点』の司会をやっている田畑彦右衛門さんは本町通りの生まれ、後輩の吉村さんが三之町通りで、実家がごく近所同士という仲である。日曜日の夜のNHKテレビは、まさに上野市出身のこの二人が主役の感がある。
国際的テノール歌手としてヨーロッパで活躍していた波多野均さんもこの町が生まれ故郷。昨年帰国して、活動の場を国内に移した。近く帰国後初のリサイタルを上野市内で開く予定。ほかにカンツォーネ歌手の奥則夫さんも上野市の出身。
もっとも、芭蕉を生んだ土地柄だけあって、俳句人口の多いのは当たり前。俳誌「年輪」を主宰し二年前に亡くなった橋本鶏二さんなど多くの俳人を輩出しているが、これは多過ぎるので、割愛させてもらうことにする。
二つの開発計画
「歴史の町」と言っても、決して過去の遺産だけにしがみついている町ではない。目下二つの大きな開発プロジェクトが進行中だ。その一つが、市の東南部の丘陵地を開発し、産業、教育、文化、スポーツなどの都市機能に加え、ゆとりと潤いのある居住環境を備えた複合型新都市を整備しようというもの。地域振興整備公団の手によるもので、計画面積は約三〇〇ヘクタール、完成目途は二〇〇二年である。
もう一つは、森永製菓(株)が創業百周年(一九九九年)の記念事業として取り組んでいる“森永エンゼルの森計画”。地域公団の新都市に隣接する約一〇〇〇ヘクタールに約三五〇〇億円という巨費を投じて、創造の森、発見の森、やすらぎの森、くらしの森の四つのゾーンから構成される複合型都市である。とにかく「伊賀上野」は、「歴史の町」から大きく様変わりしつつある「生きた町」へ、そして、かつての近畿圏と中部圏の「はざま」から、両圏域の「結節点」として脚光を浴びる町へと変貌しようとしている。