郷土史あれこれ       

斎藤茂吉と伊賀上野

『アララギ』の歌人・斎藤茂吉が上野へやってきたことについて触れることにする。
 茂吉は昭和二六年に文化勲章を受けたが、その翌々年七十二歳で死去。茂吉の没後、妻てる子は世界各国を遊歴し、高齢の登山家、あるいは二男北杜夫の小説『楡家の人びと』のモデルとしてテレビなどに出演して有名になった。
 その茂吉は、てる子十一歳の時に婿養子になっているが、二人の仲は必ずしも順風満帆とはいかなかったようである。たとえば昭和八年十一月八日の新聞記事に「医博、課長夫人等々不倫・戀のステップ 銀座ホールの不良教師検挙で 有閑女群の醜行暴露」という見出しが踊っている。
 この記事の中にダンス教師の取巻き常連としててる子が登場。茂吉はこの一件で昭和二十年まで別居した。
 さて、その前年五月十四日、五十一歳の茂吉は伊賀上野駅に降り立った。それは前々日の十二日、東京府立第八中学校在学中の長男 茂太が、修学旅行で奈良向う途中、汽車の中で顔面を負傷、多量の鼻出血のため、急遽、伊賀上野駅で下車し、駅前の三田地旅館で世話になったからだ。
 十三日、電報の知らせでまず午後一時にてる子が出発し、伊賀上野駅に着いたのが、夜九時二五分。そして遅れて東京を発った茂吉の到着が十四日になった訳だ。
 旅館に見舞った茂吉の前で、茂太は洗面器一ぱいの出血をもって父を出迎えた。茂吉の帰京が十九日となっていて、その間に茂吉は二、三度、沖森書店を訪ねて古書を購入している。
 この時の茂吉の歌に『旅とほく 病めるわが子よ もろびとの あつきなさけに 今ぞよみがえる』など六首が残されている。茂吉にとってさしたる秀吟ではないが、ここには息子の急病を聞いてかけつける人間茂吉の深い悲しみが詠み込まれている。
 昭和六四年一月二八日、茂太は上野で講演し「伊賀上野のことは、終生脳細胞に焼きついて離れることはないだろう」としみじみ語った。