郷土史あれこれ       

百年前の伊賀

 新千年紀という節目の2000年を迎えた。その前の千年紀というと、ちょっと古すぎて、伊賀ではネタに乏しい。そこで、百年前の1900(明治33)年の伊賀を見てみよう。と言っても、ここ一、二年のうちに、横光利一生誕(明治31)、上野高校創立(明治32)、関西線全線開通(同)といった、それぞれ百周年記念行事が盛大に行われたあとで、これまたネタが少ない。
 なんとか無理矢理に話題を拾ってみることにしよう。この年、かの横光利一の一家は鉄道敷設工事のため、千葉の佐倉に移住。二歳の利一は赤痢にかかったが、全治しないまま東京の赤坂へ移っている。上野では、伊賀学友会が機関誌『伊賀』を創刊。のちに文部省の視学官をつとめたことのある教育者・乙竹岩造氏(万町生まれ)が、発刊の辞を書いている。この学友会は、「伊賀の学生を誘掖奨励すること」を目的に結成されたもので、同誌には論説のほか、随想、新体詩、俳句、和歌、漢詩などを載せている。また赤坂町の酔月樓(現在の三田清)で新卒学生を祝う宴会が開かれた様子も載っている。招かれた学生のなかには、豊岡博道(念佛寺の先々代住職)、田山八十吉(のちの上野町長)さんらの名がある。もっとも、かつての酔月樓は農人町にあって、江戸後期の歌人・蓮月尼が山渓寺に眠る実父の墓参りに来た折、宿所にしたという由緒ある茶亭であった。伊賀の近代化に大きな足跡を残した田中善助氏は、伊賀町山畑の白藤の滝を水源とする発電計画をしたが、灌漑用水問題で中止したのもこの年。巌倉水電が竣工したのは、さらに四年後のことである。
 島ヶ原村では、明治二八年に川南区で良質の耐火粘土が発見。京都の清水や北陸の九谷などの製陶地はもとより、大阪砲兵工しょうや、八幡製鉄所などからも大量の注文が殺到。この年、品川白煉瓦鰍ェ村内に出張所を設けている。耐火粘土は、今も村の特産品として採掘が続けられている。この年に生まれた人に田中佐武郎(元県議)、佐賀伊太郎(元市助役)、桂喜美(元市婦人会長)さんらがいる。