郷土史あれこれ       

二百年前の伊賀

 前回は百年前の伊賀の様子を書いたが、ことのついでに二百年前のことについてものぞいてみよう。
 1800(寛政十二)年のわが藤堂藩主は九代高嶷(たかさと)公。上野には城代家老(今でいう伊賀県民局長)藤堂采女元享(うねめもとたか)がいた。
 伊賀の八宿では十二年前に「人馬運賃」の値上げを嘆願していたが、この年六月上野と八宿の馬持ちに米五俵と大豆二十七俵半が与えられている。値上げは認めないが、ちょっとしたお駄賃という訳か。
 その上野の町への諸国からの往来もさまざま。まず三月五日には念佛寺で相撲興行が行われている。もっとも今の本堂が建てられたのが、この年の三年後。どんな力士がやってきたかまでは残念ながら不明である。
 六月二十三日には古山界外村では旅僧が咽(のど)を突いて自殺。翌二十四日には木興村の野口池で津の伝七という者が入水した。
 七月二日、遊行上人(ゆぎょうしょうにん)が上野で泊っている。遊行上人とは時宗の総本山遊行寺の歴代住職の総称で、諸国を遊行することをならいとしていた。上野を発って長野越えで伊勢国へ入っている。
 十一月二十六日には下野国(栃木県)の久治という盗賊が西山村と島ヶ原村で放火。牢に入れられたが、のちに牢を破って逃亡した。
 また、公儀(幕府)から指名手配されたお尋ね者の備中国(岡山県)伊七が五ヵ月後に召捕えられている。
大和街道の調査のため幕府の分間改役人衆が上野へやってきたのは一八〇三年のこと。有名な伊能忠敬が公儀天文測量方として島ヶ原村から上野へ入り、佐那具村へ向ったのはさらにくだって文化十一(一八一四)年三月のことであった。
 藤堂藩がはじめて銀札を発行したのは一七七五(安永四)年であるが、二百年前名張の殿様・藤堂宮内(くない)は、銀札方より十年賦で二百五十両を拝借している。その利息は八分であったが、この殿様、一方で借金をしながら三月二五日に温泉行きを願い出、一ヵ月後に三泊四日の旅行を敢行した。気楽なものである。