郷土史あれこれ       

西島八兵衛の業績

 藤堂藩きっての能吏で、城和奉行をつとめた西島八兵衛は、慶長元年(1596)に遠州浜松で生まれた。本名は之尤(ゆきとも)、のちに之友と改めた。
 慶長十七年、駿府において藤堂采女元則の肝煎により、禄一五〇石で藤堂高虎に召し抱えられた。元和元年(1615)の大阪冬・夏の陣では、高虎の側近として、主に記録方を担当。その後、高虎が縄張りの任に当たった二条城や大坂城の増修築工事では、絶えず身近で右筆として仕え、為政の手法や、土木技術を修得するという機会に恵まれた。
 元和七年(1621)、讃岐国の藩主、生駒正俊が36歳で死んだ。正俊の妻は高虎の養女であったが、その子高俊が11歳の若さで家督を継いだため、祖父である高虎が高俊の後見人として生駒家の内政に関与。そこで高虎はまず腹心の八兵衛を讃岐国へ派遣した。
 その後、八兵衛は一旦津藩へ帰るが、寛永二年(1625)の讃岐大旱魃で再び生駒家へ派遣され、土木技術に長じていたので、四年間で数多くのため池の築造・復興を成し遂げた。同六年(1629)、老齢で病気がちとなった高虎は、自分の身近にと八兵衛を江戸へ呼び返したが、高俊の岳父で老中の土井利勝の強い要請で三たび讃岐の治世に当たることになった。翌七年、高虎が死去。同八年には三年の歳月をかけた満濃池の修復工事が完成。つづいて洪水の氾濫で課題となっていた香東川の改修工事を竣功させた八兵衛は、名実ともに讃岐の一大恩人として顕彰される人物となった。
 正保二年(1645)、八兵衛は藤堂高次に禄一千石で召された。一時、江戸家老をつとめたが、翌三年に旱魃があり、山畑新田や美濃波多新田の開墾、雲出井手の開築などを手がけた。慶安元年(1648)には藩の山城大和を管括する城和奉行を仰せつかって、その後、約三十年にわたって城和の民生に力を注ぎ、奉行記録『萬大控』を残した。85歳で死去。上野市紺屋町の正崇寺に眠る。