郷土史あれこれ       

伊賀傘盛衰記

    かつて上野の代表的な産物の一つといわれたものに「伊賀傘」がある。その生産が始まった時期ははっきりしないが、藤堂藩政の末期、下級武士の内職に端を発しているという。
  明治7年5月、旧藩主の御書院跡で開催された「伊賀上野博覧会」に、生糸、陶器などと共に、「伊賀製傘十八品」が出品されている。さらに、明治16年頃発行の「阿拝郡上野市街明治地誌」では、当時の上野市街の年間生産量が六万七千八百五十本と記され、中でも桑町の四万本が群を抜き、中町六千五百本、赤坂町六千五十本、小玉町六千本と続いている。他に愛宕町、恵美須町、農人町、西日南町でも生産されていた。
  和傘の製造戸数は、明治の後半で七〇〜一〇〇戸程度、大正時代になると一四〇戸内外を数え、伝統的な家内工業として発展していった。ただ、田中善助翁の『鉄域翁伝』によると、大正中頃までの伊賀傘は、「粗製濫造で少しも改良せず」「評判の悪いことは聞くに堪えぬ程」だったとのこと。そこで善助翁はその信用回復のため、大正7年に「伊賀傘同業組合」を組織。製品検査を徹底し、検査証印を貼り、無検査品はいっさい出荷しないようにした。翌8年4月に、全国的な傘問屋として著名となる「伊賀傘株式会社」が創業。組合は昭和8年7月、「伊賀傘商工業協同組合」と改組した。
  組合傘下の生産業者は一二五軒、従業員千六百人を数え、最盛時には年産額三五〇万円(「翁伝」)に達した。昭和8年には三百万本を製造し、岐阜についで全国第二の和傘産地となったが、一方では粗悪品も多く、少しの風雨に対してもY字型に開いてしまうことから、「伊賀のハナガサ」との悪評が立つこともあった。
  昭和23年の九三万本をピークとして、洋傘に押されるように同26年頃から衰退をはじめた。かつて上野のあちらこちらの空地で見られた傘の天日干しの姿が街から消え、その多くは洋傘製造に転業し、市内の和傘製造業者は皆無となった。