| 郷土史あれこれ |
梁川星巌と上野
美濃国に生れた江戸末期の漢詩人で、勤王の志士とも交友のあった梁川星巌(一七八九〜一八五八)は上野にも足跡を残している。
文政五年(一八二二)の九月、重陽の日に星巌は新婚間もない十九歳の妻紅蘭を伴って西遊の途についた。長良川の堤を下って、桑名四日市などに泊りながら、伊賀上野に入り、服部竹塢(字は文稼)を訪ねている。竹塢は幼い頃から文事を好み、のち猪飼敬所(津藩の儒者)や頼山陽に学んだ人物。星巌夫妻は竹塢宅に逗留し、ここで新年を迎え、二月五日、竹塢の案内で月瀬の梅見に出掛けている。
天保元年(一八三〇)三月、星巌夫妻は再び竹塢宅へやって来た。四月十八日今回も竹塢の案内で、月瀬の探梅。齋藤拙堂(津藩の儒者)や福田半香(遠江の画家)らが同行している。星巌は「此日従遊する者、率ね皆文人韻士」と記し、拙堂の「梅渓遊記」は、のち有名な『月瀬記勝』に収められた。
星巌はやがて頼山陽を訪ねて京都へ赴くが、三月二十六日にはまた上野へ立寄り、閏三月三日には、竹塢宅で雨の中、名残りの桜を見て楽しんでいる。