| 郷土史あれこれ |
壽町と馬苦労町
上野市の旧町部北西地区に「西大手町」が誕生したのは、今から50年前の昭和27年4月1日。ちょうど上野市が市制施行10周年記念に白鳳公園(現上野公園)一帯で盛大に「世界こども博」を開いている最中のこと。当時の中井徳次郎市長(新地)と中森勉市議(西之丸)が取組んだ「行政規模の適格化を図るため」の大英断であった。
その「西大手町」の区域は、市議会の議案によれば「壽町、西之丸、新地、新屋敷、山之下の各一円と、新町裏及び坂居町の一部」であって、その議決結果が上野市から三重県へ届け出たことが、同年5月16日付の三重県公報に告示されている。
ところが、この新しい町を作ったのは「西之丸、馬苦労、新地の三町を中心に七地区」(朝日新聞)と報道されていて、現に合併直前の同26年12月31日現在の町別世帯数表では、「西之丸一一四、馬苦労町一三八、新地四六」となっている。さらに逆のぼると、明治17年頃の『阿拝郡上野市街明治地誌』でも「西之丸五十五戸、馬苦労町九拾九戸」と記載されている。
そこで議案及び県告示に出ている「壽町」と、それに出ていない「馬苦労町」とは、一体どんな関係にあるのかという疑問が生じてくる。その答えは、地籍(土地の所属=壽町)と町名(馬苦労町)とが異なるという珍しいケースであったことによるものである。
即ち合併当時は土地台帳(昭和35年に登記と台帳の一元化により廃止された)に「壽町」と記載された地に「馬苦労町」の人が住んでいた訳であるが、江戸時代の「馬苦労町」は、現在の鍵屋ノ辻付近であった。
ところが、このあたりはたびたび洪水に遭い、特に明治3年の「午年の水害」で大きな被害が出たため、「馬苦労町八六戸」は、水の被害から遁れて、同6年から10年にかけて、西外堀跡(地籍が「壽町」)へ集団転居(避水移居)することになった。馬苦労町の人の本籍地が「壽町」となっていたのは、こうした事情によるものである。