郷土史あれこれ       

日本最古級の医師会

  明治四年(一八七一)七月に設置された文部省の中に、「医務課」が設けられたのが翌五年二月のこと。さらに翌六年三月に「課」が「医務局」に昇格し、ついで翌七年八月、わが国の総合的衛生制度の濫觴たる「医制」が発布された。
  その後、明治十六年三月内務省が「開業医組合設置法」を布告して、各郡ごとに組合を設置するよう働きかけている。これが、わが国に医師の職業団体である「医師会」が組織されていくいきさつである。
  ところが、「医制」が発布される前年、明治六年八月、上野・福居町の医師である富山淳道が首唱し、他に奥榮俊、村上晴雲、宇佐美春庵、学務委員須知正毅の四名が発起人に加わって伊賀四郡の医生を集めての「癸酉医会」が設立、同時に癸酉会病院が創設されている。
  東京に学会と医師会の性格を持つ団体「東京医学会社」が設立されたのが同八年四月のことであるから、これは驚くべき事実である。 大正八年から阿山郡医師会長をつとめた岩野森之助は「伊賀医史稿」で、

  明治元年より七年までの間は、真に日本新医学態形基礎を定むる時代であって、首都東京に於てすら大学所属の病院や陸軍の病院を創立せんとする状態で、医師の団体の発生など思いもよらぬ状態であった時代に、伊賀の山奥に医師の結社、病院の創設などは実に破天荒の企てで、社会の進運に先鞭をつけた卓見であると謂わねばならぬ。

と書いている。
  癸酉は、明治六年の干支癸酉(みずのととり)にあたることから名づけられたもので、明治四十年、法令によって「阿山郡医師会」となるまでの間、三十五年間にわたって使われた名称であった。
  首唱者の富山淳道は、天保八年(一八三七)上柘植で医師・松齊の子として生れ、慶応三年(一八六六)に上野・福居町で開業。この地こそ、わが国における「医師会組織の発祥の地」と言って過言でないだろう。