郷土史あれこれ       

医師・廣岡文臺

  江戸時代後期の漢詩人に北條霞亭(一七八〇〜一八二三)がいる。字は子譲、通称は譲四郎と言い、志摩国的矢の出身である。
  霞亭は、一七九七年に京都に遊学し、皆川淇園に朱子学を、廣岡文臺に医学を学んでいる。
  その文臺は伊賀上野の医者で、名は元、字は子長、文臺はその号である。宝暦五年(一七五五)の生れ。長じて京都へ出て播磨国赤穂藩儒で医師の赤松滄州に漢学と医術を学んで、京都にて塾を開いていた。著書に『傷寒論註釋』六巻がある。
  文臺が伊賀上野萬町から霞亭に宛た文化六年(一八〇九)三月二十五日付の書簡が残されている。そこには、霞亭が贈った『霞亭摘稿』を熟読したこと、霞亭が江戸にて儒学者の亀田鵬斎に会ったこと、そして自分も近いうちに江戸へ赴き友人を訪ねたいことなどが記されている。
  翌文化七年三月六日に、霞亭は文臺を上野萬町に訪ねているが、残念ながら文臺はその月の一日に五十六歳で没していたのである。霞亭はよもやの旧師の死に直面し、すぐさま強烈なる感動をもって父に書簡を送っている。

  伊州上野へ尋ね参り、久々に積思を開き申すべくと相楽しみ罷り越し候処、彼文臺先生当月朔日病死致され候。誠に驚き入り候次第に御座候。病中は僅か七、八日の事に候よし。其中に私事申出され候よし。落涙に堪えず候。医術学業においては無双の人に候えども、段々不幸相続き、貧困にて終られ候義、実に感慨これ奉り至り存じ候。定めなき人世、はかなき事どもに御座候。家刻の傷 寒論は当年京大坂の披露相済み、その後東行致さる積りに御座候処、右の仕合せ惜しむべく悲しむべきは、この事に御座候

  霞亭は三月上旬に伊賀より帰ったが、戸を閉じて二十日間も客には会わなかったという。
  文臺先生は上野市守田町の九品寺に眠っているが、その業績を知る人は少ない。