伊賀路の山頭火
昭和十一年三月二十三日のこと。種田山頭火は、木津町の宿で雀のおしゃべりによって目ざめた。山頭火は、無季で五・七・五にこだわらない自由律の俳人。
身支度を整えるとすぐさま汽車に乗った。車窓から笠置の山や水、家などすべてが好ましく見えた。
九時に大河原で下車。すぐ木津川を渡船で渡る。まだ沈み橋が掛っていなかったのだ。旅は道連れ、快活な若者と女給さんらしい娘さんらと一緒に山を越えることにする。名張川に添うて二里ばかり歩くと、梅がちらほら咲いている月ヶ瀬梅渓に到着。だいぶ名所じみているが、この月ヶ瀬が気に入ったらしく、
- ここから月ヶ瀬といふ梅へ橋をわたる
- 五月川一目萬本月瀬橋
- 落葉ふる岩が腰かけとして
- どこで倒れてもよい山うぐひす
- 落葉してあらはなる巖がつちり
- 蕗のとうあしもとに一つ・後になり先になり梅にほふ
- 捨てられた梅も咲いてゐる
の八句を詠んでいる。
山頭火が月ヶ瀬に来遊してから59年目の平成七年の同日、月瀬橋畔と、稲垣氏城跡(石打)に、三河・知多山頭火の会(代表・稲垣恒夫)の手によって、ゆかりの句碑が建てられた。
月ヶ瀬からは、バスで上野町(当時)へ移動。この日は遊郭近くの安宿へ泊ったが、うるさい宿であったという。
翌二十四日は天候晴。上野は芭蕉翁の生誕地。さっそく故郷塚や瓢竹庵など芭蕉遺蹟を探訪。既にお城が再建されていたが、登閣した形跡は無い。山頭火にとって、上野は「好印象」を与えた土地であったが、大先達の芭蕉翁に対し、どんな感慨を抱いたのか、残念ながら一句も詠んでいない。
上野からはうららかな田舎道を三里、阿保町まで歩いている。阿保はかつて俳句仲間であった大橋裸木が住んだ街。三年前(昭和八年)に病いのために若くしてこの世を去った裸木のために念仏を唱えた事だろう。