郷土史あれこれ       

医家・宇佐美家の人々


 阿山医師会の前身・癸酉医会(明治六年創立)を創った発起人のひとり春庵は代々藤堂藩に仕える医家・宇佐美家の八代目である。
 初代の草琢励庵は、伊豆国の出身で、のち江戸表に出て医業を始めた。この時藤堂藩の三代藩主高久に仕え五人扶持を拝領したことから、伊賀上野に引っ越すことになったが、寛文十二年(一六七二)に没。
 その子治庵は、高久から二百石を拝領。高久の没後は四代藩主高睦に仕え、日光への社参には弟子一名を連れて随行し、のち二百五十石を拝領。宝永七年(一七一〇)の恵美須町の大火(焼失家屋32軒、一説には50軒とも)では、治庵の門長屋も焼失した。
 この治庵に子がなく跡目を継がせるため才庵を養子としたが、病気でお役目が果せず、代わって名古屋の大田東作の子を三代目春庵として迎えた。
 三代目春庵は、京都で医術を修め、享保十二年(一七二七)幕府の薬草御改め役人である植村左平次が伊賀へ来た時には、薬草見習として調査に同行。その経験から五代藩主高敏のお屋敷の薬草管理に関係し、ご褒美を拝領。その子貞庵に事情があって、四代目春庵も他家からの養子である。 四代目春庵の子・栄庵は天明五年(一七八五)に大和国の藤堂藩領へ療治修業に出ているが、この栄庵がのちの五代目治庵かどうは定かでない。
 五代目治庵は、文化七年(一八一〇)大和国別所村で疫病が流行した折、現地に数日間逗留し、百姓どもの治療に当たり、また同十二年(一八一五)老中酒井讃岐守が伊賀路を通過した時にも活躍している。
 六代目脩庵は大阪の町医田辺家からの養子。七代目は治庵、そして八代目春庵は冒頭に紹介した人物。
 九代目を継ぐ筈の春庵の二男は、府立大阪医学校を優秀な成績で卒業、大阪で開業すべく準備をしていたが、明治四十三年25歳の若さで他界。後継者に先立たれた春庵も悲しみにくれながら大正九年、75歳で永眠。医家の名門・宇佐美家の一族は念佛寺に眠っている。