| 郷土史あれこれ |
虚子と一目の居
花鳥諷詠の客観写生を説いた「ホトトギス」主宰の俳人・高浜虚子(一八七四〜一九五九)が、芭蕉翁の二五〇回忌のために上野市を訪れたのは、昭和18年11月22日のことであった。
虚子には野村泊月、富安風生、麻田椎花、松尾いはほ、深川正一郎らが従い、虚子の二女・星野立子も同行した。
この時期、日本文学報国会が主催して、蕉翁の年忌が東京、大津でも行われ、翁の生誕地である伊賀上野は三か所目で、文学報国会俳句部会長だった虚子は、京都から上野に入り、一行と共に友忠旅館に一泊した.
翌23日は、午前11時から愛染院の故郷塚での法要、午後は上野公園内の公会堂で四百名が参加しての全国俳句大会が開かれたが、それに先立って、丸之内の菊山九園邸を訪れた虚子は、ここで
掛稲の伊賀の盆地を
一目の居
と詠んだ。
虚子はよほどこの九園邸が気に入ったらしく、帰京してのち
「あなたの住居が気に入りました。貧居といふにあらず、唯有るが儘の住ひなり。
屏風二枚
其ほか障子五六枚」
と葉書を寄せた。
このことにより、九園邸は「一目の居」と呼ばれるようになり、虚子ゆかりの俳跡となった。
この折、虚子がわざわざ九園邸を訪問したのには理由があった。九年前の昭和9年4月8日、宇治山田市(現伊勢市)で三重県ホトトギス会の発会記念の句会が開かれ、それに出席した虚子が、翌9日に初めて伊賀上野を訪れたが、その案内役をつとめたのが、当時42歳の九園であった。
九園はその時、上野からさらに月ヶ瀬、赤目滝へと虚子を案内している。
この「一目の居」に昭和36年5月1日、虚子の「掛稲の」の句碑が建てられ、立子の手で除幕された。
しかし、昭和45年に九園が、さらに同58年に妻の享女が亡くなり、主を失なった「一目の居」は、多くの俳人たちが引杖した昔日の面影をなくしつつある。