郷土史あれこれ       

遊歴の画家・堀西米中

  伊賀上野で逗留したことのある日本画家として、富岡鐡齊が有名だが、堀西米中(一八五〇〜九一)もまた、上野、名張に足跡を残した画家のひとりである。
  米中の本名は喜市、嘉永3年に伊勢松坂日野町で生れた。父喜兵衛(喜六とも)は、小津屋の屋号で米・荒物雑貨商を経営、浄瑠璃や三味線を嗜み、また絵馬を描くのが巧みな文化人。一方、母志嘉は寺子屋で算術を教え、和歌を詠むという教養人。そんな恵まれた環境で育った喜市少年は、8歳の頃にすでに山水画を描いて、周りの人々をびっくりさせたという。
  12歳まで寺子屋で学んだのち、一時、伊勢山田へ奉公に出たが、14歳の時、松坂へ帰って、円山四条派の井村古碩の門を叩き、六年半にわたって本格的に画を修業。同じ頃、医師橋本鶏足に漢学を学び、17歳で初めて米中の号を用いた。松阪市の八雲神社本殿には、18歳の時に描いた絵馬二枚が残されていて、これが現存最古の作品。
  明治9年、26歳で結婚しその年から翌年にかけ、妻を伴って紀州路を旅行、その後もたびたび、京、大阪、紀州路を遊歴している。
  明治15年の第一回絵画共進会へ「鵞」と「人物」、同17年の第二回には「西園雅集」と「雪中芦鷹」が出品されている。
  同18年頃には、伊賀地方に活動の場を移し、上野や名張の旧家などにその作品が残されている。上野市鍛冶町の棲車「月鉾」の四面を飾る水引幕は「飲中八仙図」と呼ばれ、中国の詩人杜甫が作った飲中八仙詩をもとに絵にしたもので、この下絵は米中の作と伝えられている。
  また阿山町円徳院の西光寺に残る山水の襖絵、上野市・久保家の八曲一双の山水、花鳥の屏風などが伊賀での代表作。
  米中は明治24年9月、遊歴の途中、大津三井寺の塔頭で病死、41歳の若さであった。
  昭和56年8月上野市の産業会館で、また平成3年7月から10月まで松阪市の歴史民俗資料館で米中の遺作展が開かれた。