郷土史あれこれ       

高虎と大坂夏の陣

「高虎サミット」というイベントが、去る五月六日と七日の二日間、藤堂高虎(一五五六―一六三〇)生誕の地・滋賀県甲良町で催された。一昨年、津市で初めて開かれ今年は二回目。二年に一度の開催で、再来年には上野市で開かれる予定だとか。
 高虎は『主君を変えること七度』と、戦国動乱の血と雄叫びのなかを生き抜いた武将だが、75歳でその生涯を閉じた時、 「六尺豊かの御尊骸には、隙間もなきほどの疵跡ができ候、弾丸疵、槍疵もところどころにでき候。右の薬指、小指は切れ落ち、左の中指も一寸ほど短く、右足の親指の爪もなく候。恐ろしき御苦労なされ候御事」と、湯灌記録に記された。
 その高虎の生涯最大の苦戦は大坂夏の陣(一六一五)であろう。この年三月、津城にいた高虎に、家康から 「再び先鋒として出陣せよ」との内命があった。そこで高虎は、藤堂仁右衛門高刑を左先鋒、藤堂新七郎良勝を右先鋒、藤堂宮内高吉を中軍に据え、五千の軍団を編成した。
 家康は全軍を二手に分け河内と大和から大坂城攻めを決定、高虎には井伊直孝とともに河内からの出撃を命じた。
 五月六日、河内若江で藤堂、井伊の両軍が、大坂方の長宗我部、木村両軍をはじめとする大部隊と激突。
 この戦さで高虎も手に槍傷を負った。八尾の常光寺に引き揚げ、首実検をしたところ、敵兵の首級は七百八十八、うち甲(かぶと)首は四百四十を数え、翌七日にも七十九の首を討ち取った。この時、首実検に使った用材は血が滴り、今も常光寺に「血天井」として残されている。
 一方、自軍側でも藤堂仁右衛門をはじめ新七郎、玄蕃良重(右先鋒相備え)、勘解由氏勝(旗本の前備え) さらに桑名弥次兵衛(左先鋒相備え)、山岡兵部(赤母衣使番)ら騎士・陪臣七十一名と歩卒二百余名を失った。高虎は常光寺境内の西隅に「藤堂軍墓地」を作って陣没兵士の霊を弔った。
 今も、大きな楠のもとに大は三〜五尺、小は尺余の五輪塔七十一基が、三列に並んで祀られている。