郷土史あれこれ       

有料道路の始まり

  日本で最初の有料道路が開通したのは、明治15(一八八二)年7月30日のことだった。「西の箱根」と言われ、長崎街道きっての難所であった日見峠を、一一〇尺(33メートル)切り下げて人力車や馬車を通りやすくしたもので、建設費の不足を補うために、道中の二か所で交通料金を徴収したのが、わが国での有料道路の始まりである。
  同じ頃、伊賀地方でも通行料金を徴収する道路の計画があった。
  その当時、上野から京阪地方へ輸出した主な物産品は、米、茶、雑穀、種油、傘などであった。それらの伊賀の物産は、一旦笠置まで運び、そこから川船で淀川を通って大阪へ届けていた。
  一方、大阪からの荷物は淀川から木津川を遡って笠置まで運び、笠置の問屋の倉庫へ卸し、それをぼつぼつ牛や馬で上野へ運んでいた。従って、笠置が上野への物流の大きな関門となっていて、独占事業であった笠置の問屋は、自由自在に自分勝手な運賃なり口銭を取るといった横暴ぶりも見られた。
  荷物は倉庫へ入れるが、先に届いている荷物の上へ上へと積み上げていくため順序通りにさばけず、急ぐ荷物も上野へ届かないという事態もしばしば。困った上野の商人たちは、笠置上野間の道路を改良して、通行しやすくすることが、笠置の問屋での荷物の滞留を少なくすることになると、明治15年4月、大和街道道路改良社を結成。その中心となったのが、改進党代議士の立入奇一のほか、森川六右衛門、筒井喜一郎ら上野の商人と、長田村、島ヶ原村の有力者であった。
  工事費予算は一万一千八百七十五円。このうち三重県から年賦償還の方法で五千円、あとは上野町の有力者から借入れし、翌16年8月に工事が完成。その借入金の償還方法として通行料金を徴収することとし、ここに日本で二番目の有料道路が開通した。
  荷車は一台に四十貫(一五〇キロ)の荷物を積むとして三銭五厘、歩行者は一人一銭五厘を徴収するため長田村三軒家と、島ヶ原村の西端、伊賀山城の国境との二か所に料金所を設け、五か年間で県および出資者に返済する計画であった。
  ところが、いざ開業してみると、荷車も人も、新道の料金所をうまく避けて旧道を通り、人目の無い所で新道に戻るという有様。そこで取扱い運送店で、荷物の運賃に通行料を加算してもらって手数料を支払う方法に変更。しかし二年目にこの道は県道となり県へ移管。有志の出資金は全て県へ寄付をして、解散した。