| 郷土史あれこれ |
高旗山スケートリンク
日本で初めてスケートを滑ったのは、札幌農学校教師として着任した米国人ブルックスで、明治10年(一八七七)2月のこと。そして、第一回の全日本スケート選手権大会が青森県八戸で開かれたのは、さらに半世紀を経た昭和5年(一九三〇)1月で、日本が冬季オリンピックに初参加したのは、なお二年後のことであった。
こうして国内でもようやくスケート競技への関心が高まりつつあった頃、伊賀にもスケートリンクを作ろうとの計画が持ち上った。
大阪財界に太いパイプのあった上野町出身の安屋元郎氏が、高旗山(標高710メートル)の山頂に目をつけ、「高旗協会」を組織、会長に医師の稲野宇憲氏、顧問に同じく菅野四郎氏を据えて建設に動き出した。
高旗山スケートリンクは当時スケート界のアイドル的存在だった稲田悦子嬢が初滑りを披露して、昭和10年(一九三五)12月26日に華々しくオープンした。
翌11年3月1日には全関西スケート連盟の選手ら多数が参加して、模範競技大会が開かれ、紅一点月岡芳子嬢も華麗に滑った。
その年の暮には、平屋建四十坪のヒュッテも完成。一泊三十銭で、北辰亭食堂部が出店し、いよいよ二年目のシーズンが開幕した。
ここで宣伝に大きな役割を果したのが、中町の宮崎慶之助氏の撮影した映画。宮崎氏は第二回全日本8ミリ映画協議会で入賞した腕の持ち主。50フィート一巻にまとめられた映画は、新町など各町内の集議所で映写会を開いて公開。「五の市」の日に開かれた東町集議所での映画会では、正札屋がレコード音楽の伴奏をつけて大好評となった。
こうした宣伝が効いて高旗山への登山客が増え、久居の歩兵第33連隊も氷上演習のため訪れるという盛況ぶり。大阪朝日新聞はオリンピックに出場した関西スケート連盟所属の老松選手を伴って登山、その滑走ぶりを撮影し報道した。
安屋氏は「16か国が一望できる関西のスイス」との宣伝文句で各方面にPR。日本旅行協会が推せんし、大阪鉄道局もハイキングコースとして指定。当時の伊賀實業新聞はその盛況ぶりを、「登山者に非常な好感を与え、リンク売店には、キャラメル、サイダー等もあり、山頂でコーヒー、紅茶が飲めるし、レコード音楽、ラヂオも聴取出来る便利さに、全く山頂は一変して近代風景の繁栄地と化している。」と報じている。しかし、一時は国土地理院発行の「五万分の一地形図」に「高旗山ヒュッテ」と記載されたこの施設も、今はその面影がない。