| 郷土史あれこれ |
戦没学徒 菊山裕生
菊山裕生は、おしどり俳人として知られた菊山九園享女の三男として、大正10年9月6日に生れた。上野中学、第三高校を経て、昭和17年10月に東京帝国大学法学部に入学、いわゆるエリートコースを歩んだ俊才だった。
早くから両親の影響を受け俳句に親しみ、「有星」の俳号で三高京大ホトトギス会に所属した。掌に這はせ天道蟲の星七つは、三高在学中の作で、九園邸「一目の居」の庭に、虚子句碑、九園享女句碑と共に、句碑が建っている。
裕生は、徴兵猶予撤廃による第一回学徒兵の入営となった昭和18年12月1日、東大在学中に入隊。その時の不安な心境を、「一体私は陛下の為に銃をとるのであろうか。或は祖国の為に(観念上の)又或は私にとって疑いきれぬ肉親の愛のために、更に常に私の故郷であった日本の自然の為に、或はこれ等全部又は一部の為にであろうか。然し今の私にはこれ等の為に自己の死を賭すると言うことが解決されないでいるのである。自分のようなものでも、どうかして生きたいと言う感じを持っている現在の私にどうして銃を持って戦線に赴く事が出来るのだろうか。」(『きけわだつみのこえ』に収載)と綴っている。
出征の日、父九園は
吾も唄う征く吾子送る、冬の唄
と詠み、母享女も
今日よりは枯野千里を、汝とゆく
と詠んだ。
19年10月、比島より裕生からの第一信が届いた。
ふるさとの祭や父母はいかにますか
これを読んだ享女は、すかさず、
この月に祈れる母は、われのみか
と詠んだが、この母の思いを裕生に届けるすべなど、あろう筈は無かった。
第二信は20年2月、同じく比島より発信され、
如月の北斗光れり、祈るなり
の句が添えられていたが、このハガキが戦地からの最後の便りとなった。
裕生戦死の報が菊山宅に届いたのは、21年の夏であった。実はその前年、20年4月29日、奇しくも昭和天皇の誕生日にルソン島で戦死していたのだ。悲報が伝えられた日、父九園は
汗の手に戦死の報を受けとりぬ 秋風や千里帰りし遺骨抱く
と詠んで、23歳の若さで親より先に逝ったわが子を悼んだ。上野市寺町妙昌寺に眠るその墓碑には、
爽やかに俳句に遊び、おわすらん 虚子
の弔句が刻まれている。