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左利きの日本画家 治田美山
日本画家の治田美山(本名・重男)は、明治31(一八九八)年3月25日、当時の名賀郡花垣村大字治田152番屋敷で、養蚕業を営んでいた治田柳吉・いとゑの長男として生まれた。のち弟五人、妹一人が生れて、俗に言う「七福人」の総領となった。
10歳の時、不慮の事故で右手首から先を失った。火薬類の爆発事故に遭ったらしいが、このため終生和服姿で過ごすこととなった。
大正元(一九一二)年、重男14歳の時、父・柳吉は妻子を連れてこの地を離れ朝鮮に渡った。最初は仁川で、のち京城に移った。
上野市治田の地蔵寺(現廃寺)墓地に残る「治田家累代の碑」(大正2年2月建立)には、友人・市田枕水が撰した治田家の由緒書と共に、「渡鮮者」として「治田柳吉、いとゑ、重男、利憲、きく江、和一」の名が刻まれている。4男、5男、6男はいずれも渡鮮後に現地で生まれている。
大正3(一九一四)年、16歳の重男は、絵画の勉強をするため、単身日本へ帰り、大阪府堺市の某寺のお堂で寝泊りしながら絵の修行を始めた。
その後、京都・下鴨神社(賀茂御祖神社)の西に居を移し、日本画家・庄田鶴友に師事した。鶴友は文展で入選6回、褒状5回、帝展は推薦出品し、のち自由画壇の同人となった著名な画家。重男はこの頃、玉城と号していた。
大正14(一九二五)年、27歳の時、島ヶ原村の岩佐はなと結婚。居を山科に移して、左手で主に花鳥、山水、人物などを描いていたが、戦時中は一時制作活動を中断した。
昭和18年5月に描いた大和室生寺の風景画は、京都の五条天神社(下京区天神前町)に納められている。
戦後はたびたび出身地の上野市治田や予野、その隣村・奈良県月ケ瀬村石打、母の実家のある上野市大滝などを訪れ、乞われて襖絵などを描いた。治田の薬師寺には松と群鶴を描いた襖絵が残されているが、左利きの美山が描く動物は、右向きの構図となっている。
官展などにおける華々しい入賞歴は不明であるが、無欲で儲けることをしなかった。亡くなる数年前のこと。九州から或る男が山科の美山宅を訪ねてきた。その男は美山の作品を評価し九州での公開を勧めた。話し合っているうちにふたりは意気投合。その結果、美山は「自宅で死蔵しているよりは、多くの他人様に見てもらえる方がいい」と言って、作品をそっくり差し上げたという。
昭和32(一九五七)年11月30日、山科の自宅で没。満59歳という若さだった。