郷土史あれこれ       

上野文化会の活動

  敗戦直後の上野市の文化活動の中でひときわ光彩を放ったのは、昭和21年5月に誕生した「上野文化会」であった。
  その設立趣意書によると――敗戦の結果与えられた自由によって、私たちは自分の眼で見、自分の耳で聞き、自分の口で自由に話すことができるようになった。従って、私たちは自由により国民の文化水準の向上に寄与し、国民の一人一人がよき文化人とならねばならない。――としている。
  そしてその「さだめ」の中で私達は凡ゆる生活にマッチした文化、例えば映画、演劇、音楽、美術等の鑑賞、批判、脚本、詩その他の朗読会、更に自分達の手に依る演劇上演、機関紙も持つつもりです。勿論エンジョイするだけではありません。常により高いものへ・・≠ニ謳っている。
  この会を主宰したのは村田かよさん。関西自由懇話会理事の小西綾と松本員枝、さらに東京で音楽事務所を持ち、後にイタリアの国家勲章を受けた吉田昇らの協力支援を得てつぎつぎと一流音楽家らを招へいした。
  例えばテノール歌手・藤原義江の独唱会、平岡養一木琴独奏会、オーケストラ指揮者・近藤秀麿による演奏会(メゾソプラノ北沢栄ヴァイオリン鳩山寛)、大谷冽子、原信子(ともにソプラノ)独唱会、原智恵子ピアノ独奏会、諏訪根自子のヴァイオリン独奏会、江口隆哉らの舞踊発表会など毎月のようにつぎつぎと開催された。
  また教養講座として、同志社大学の住谷悦治、京都人文学園長の新村猛、朝日新聞天声人語の吉村正一郎らの講演会、哲学者・谷川徹三を囲む会などがあった。
  会費は一か月三円で、入会金は二円であった。幹事は女性が多く、行事のたびに会員券を売り歩いた。例えば昭和21年8月9日、阿山高女講堂で開いた藤原義江独唱会は12円であった。
  会運営は赤字の月と黒字の月が半々で、何とか維持していたが、「お金のこと以上に苦しむことは税務署などが文化活動に理解が無いこと。何か営利的に儲けているのではないかと、まるで興行師か何かのように常に見られたこと」と、村田さんは述懐している。
  昭和24年2月の創立三周年記念公演では、乙羽信子のいた宝塚少女歌劇雪組を旭座に招いて行い、大入満員で赤字を減らした。
  やがて進駐軍の指導で市に公民館が設置された。館長に奥瀬平七郎氏が就任し村田さんは伊勢新聞記者だった北泉肇子さんと共に館員としてスカウトされた。
  こうして民間で自主運営していた文化会活動は消滅、公的活動に移行していった。