| 郷土史あれこれ |
石山古墳の発掘調査
昭和20年の敗戦によってこれまでの神話から始まる日本の歴史でなく、考古学的な遺物や遺跡の研究に基づく歴史への期待が広がっていた時代、上野市で大がかりな学術発掘調査が行われた。
場所は上野市才良地内。枅川より比自岐に至る道路の左手、岡波を南に、比自岐神社の杜(近年の台風で樹木が倒れた)を東に望む丘陵上に築かれた前方後円墳の石山古墳(旧称石塚)。
この石山古墳で昭和23年から26年にかけて、京都大学考古学教室が行った発掘調査は、旧説を覆すいくつかの発見など、大きな成果を収めた。
調査のきっかけは、近くの中学生が円筒埴輪(はにわ)を見つけたことであったが、この場所は明治16年頃に近くの村人が興味本位で後円部を掘って剣形石製模造品3個を発見していたのである。
その後も、ここから発掘された家形埴輪が、昭和15年4月に伊賀文化産業城で開かれた紀元二千六百年伊賀史展に出陳されたこともあった場所。この中学生の話題を耳にした宇佐晋一氏(広禅寺住職宇佐玄拙氏の息で当時大学生)の案内で京大の小林行雄講師が現地を訪れたのは昭和23年1月のことであった。
その年の3月、小林講師の師・梅原末治教授も現地視察にやってきて外区を発掘、本格的な発掘調査を行う方針が樹てられた。
この時、梅原教授と親交の深かった郷土史家・村治圓次郎氏の声がかりで地元の若手教員が調査の応援に召集された。西島覚、田中實、杉森隆彦氏らで、新しい歴史の研究に参画しているという喜びにあふれていたという。
本格的な発掘調査は、その年の8月に始まり、以後26年8月まで、主に夏休みを利用して行われ、宿舎は比自岐小学校が当てられた。まだまだ食糧事情がよくなかったので、京大の学生らは空腹に苦しめられた。
石山古墳は全長一二〇bもあり、その墳頂に三人が粘土で木棺を塗り包む粘土槨という埋葬施設に葬られていた。
また棟木や梁を支える大斗を線刻した埴輪の発見で大陸の建築様式が、既にこの古墳(四世紀末)の時代に移入されていたことが判明、従来は大斗を用いた建築様式は法隆寺の建造物に初めて見られ、仏教伝来と共に移入された建築様式と考えられていた。さらに墳丘のクビレ部の外側に長方形の広場が設けられていたり、多くの家形埴輪や器材埴輪の出土など話題の多い古墳だが、今もって調査報告書もなく、文化財指定もされていない。