郷土史あれこれ       

横光利一の帰郷

  上野へは行ってみたいといつも思ふのですが、ここは一番思ひ出の深い土地でありますので、それだけになかなか行くことが出来ません|こう書いていた横光利一が25年ぶりに上野の地を踏んだのは、昭和16年5月10日のことであった。
  横光は大正5年3月に、当時の三重県立第三中学校(現・上野高校)を卒業しているが、それ以来始めてのこと。これは、阿山高等女学校の創立30周年記念式典での講演を頼まれての帰郷であった。
  宿舎となった友忠旅館には、かつての中学時代の同級生らが集まって横光を歓迎した。残されている写真には、横光を囲んで他に9名が写っている。同級生の山岡信雄、押坂甚衛のほか上野で文芸活動をしていた澤成樹も写っているが、この日横光に誘われて大阪から合流した「文学界」の庄野誠一と甲鳥書林の矢倉年がこの写真に写っているか否かは不明である。
  文学少女だった徳居町の福林きさ(源治郎の長女)は、童謡や童話を書いていたSさんに誘われて宿舎を尋ねているが、取りついだY氏(山岡か)は「先生はお酒を飲んで婦人の方にお目にかかる失礼はしたくないから明日お目にかかると言っている」と断わっている。果して翌日、講演の前に会えたのだろうか。
  横光は夜更けに旧友と会した席からそっと抜けて町を歩き、金神町のおかつの家に来ると、その塀に手を当ててじっと思いに耽っていたという。おかつは『雪解』の栄子のモデルで、横光の初恋の女性だが、横光が中学を卒業した年の暮にスペイン風邪で死んでいた。
  翌11日の講演の演題は「事変と我等」。この堅い演題に比して、横光が語り出したのは、

---加太のトンネルをぬけると、・・・・小さい時の事が思ひ出されて何だか幼い時寝てゐた寝床を見る様で山の襞一つも忘れてをりません。・・・・加太のトンネルを出てからはもうお話することも忘れてしまひただ嬉しさで胸が一杯でした|という、あふれんばかりの忘郷の思いであった。それは|久し振りの歸郷の事とて夢のやうにて中學時代が甦った思ひになりました 何と云っても僕には中學時代が一番面白くあれ以來樂しきことなど殆どないので寔に嬉しく思ひました(押坂甚衛宛)---
と手紙を寄せていることからもわかる。
  しかしこの帰郷が最初で最後となった。(敬称略)