| 郷土史あれこれ |
横光利一の死
かつて「小説の神様」と言われた横光利一は、敗戦によって心身ともに疲れ切っていた。
昭和21年6月、文学における戦争責任者の一人に名指しされたうえ、脳溢血発作を起こした。迷信家であった横光は、医者にかかることを嫌い、脳溢血の予防と称して蜜蜂療法に頼る始末。両親が脳溢血で死んでいるのが、気がかりだったのである。
翌22年6月には軽い吐血があった。本人は肺結核を心配したようで、以後床に臥せがちな生活となった。盟友の川端康成らの勧めで東京大学佐々内科の柴豪雄博士が横光家を訪ねて診察をしたのは9月15日のこと。柴博士は「脳溢血の心配はない」と診断。この診断ですっかり元気を取り戻し、柴博士に「御診断に拠りまして元気大いに恢復いたしましたのみならず、迷夢も退散いたし、慶びこれに過ぐることございません」と礼状を書いている。
柴博士が消化器系統のX線検査の必要ありと感じて「大学病院へ来るように」と勧めたが、それをすっかり放置し、今度は異常なほどに甘いものを食べ出したという。
12月14日、故郷柘植での思い出を綴った「洋燈」の執筆中にめまいを起こした。翌15日の夕食後、胃に激痛が起こって一時意識不明となった。原博士の診察によって「胃潰瘍」と診断された。以後は客との面会を一切断り、自宅の二階座敷を病室にして臥床。22日、再び重態となり、川端の連絡で柴博士を迎えた。横光は「学問の学という字は風格のある字ですね」と人差指で空に「學」の字を幾度も書いてみせた。そして「何か起死回生の方法はないか」と尋ねた。博士が「絶対安静に」と言い、「X線検査の上で手術をすれば、再発の心配はない」と説明すると、満足げにうなずいた。
29日の夜半には、「ヒコーキに乗りたい」「今日はね、怨霊が沢山出て来よった」と千代夫人に話した。
暁方三時半頃になって突然急激な腹痛で苦しみ出した。この時すでに最悪の急性腹膜炎を併発していたのである。
主治医が「お呼びする人がいたら呼んでください」と言い、二男の佑典が叔父を呼びに行った。長男の象三はずっと部屋にいるのがつらくて部屋を出て、しばらくして部屋に戻ったら、横光は既に息を引取っていて、二人の子どもはその臨終に間に合わなかった。時に12月30日午後4時13分、その果敢な文学的生涯を閉じたのである。満49歳。川端が「君は東方の象徴の星のやうに遂に光焔を発して落ちた」と慟哭した。